2021 . 02 . 20

SDGsとデザイン

SDGsには様々な要素が含まれていますが、政治的なフィルターや思想的なフィルターを通してみると解釈の幅も広がってきます。

一言で自由といっても、我々は害虫の生存権を認めません。どこで線を引くかの話をずっとしているのだと思います。

こうやって明文化することによって、ここからがテリトリーだという風に線を引くのが現代風なのだとおもいます。

この話をするときにいつも思い出すのが、ジブリのもののけ姫です。非人道的な社会のなかで、人の権利を追求するなかで、人を人とも思わぬ太古の神は殺されます。生命を自然の範疇から、人の領域へと奪い取るクーデターです。

ああやって線を引かれた後の自然は、人の領域の自然となるわけです。SDGsも同じで、どこで線を引くかの話しだと思うんです。

だから、何か一つのゴールや帰結を目指しているわけじゃなく、森のクマを神とあがめていたころから、もしかするとそのずっと前から続く、人のテリトリーをめぐる解釈のアップデートのひとつなのだと思います。

仙人的に生きるなら横目でそれを眺めていればいいのですが、メジャーアップデートをして標準化して、という流れは、社会に影響力を持ったり、ビジネスを展開するうえでは無視できない問題です。

かつてのWindowのように、ほかのOSを駆逐して一般化すると、乗らないことのリスクがデカすぎます。

温暖化特化なら大企業だけの話かなと思うのですが、人の生き方やありかたまで指針を示すSDGsはスモールビジネス的にも看過できないものになりつつあります。

日本文化は線をあいまいにして境界線をうまく彩る名手だと僕は思っています。思想についてはガラパゴス大いに結構で、日本的なSDGsってのが面白い存在になるのではと思っています。

里山なんて発想がいい例で、あれをビオトープって言ってしまうとなんか違いますよね。自然の循環でありながらちゃんと人の生業が関与しているとか、ショーケース的なビオトープよりずっと面白いです。

里山のエッセンを街の中にデザインとして組み込む。境界線を城壁にしてしまうのではなく、曖昧にしつつ織り込んでいく。

そういう日本デザインの境界感をデザインしたいです。

cavy
cavy